乃公出でずんば--サラリーマンお偉いさんの悲哀について(前編)--加藤秀俊先生の「隠居学」より 晩成の命名したタイトルに合わせ内容抜粋 

(はじまり!はじまり!!)
どんな職業も社会にとって「不可欠」である。
おもしろいことに、この「不可欠意識」というやつは、組織のなかでのタテの関係によって強弱があるようにみえる。

アルバイトなんかは不可欠意識が希薄、出勤日の朝に電話をかけてきて、あのー、ちょっと都合が悪いんで、休みまーす、といった調子で勝手に休む。

だがエラくなるとそうはゆかない。社長がいなければ会社の最高意志決定ができない。エラいひとほど組織にとっての「不可欠度」は高く、したがって「不可欠意識」をもたざるをえない。・・・
平均的なサラリーマンだったら、勤務先での役職も年とともにあがって、課長になったり部長になったり。それだけ「不可欠意識」も強烈である。

なにかあっても規則だの前例だのをよく知っている。あの人は会社の生き字引みたいなひとだ、などと評判がたつと、本人は自信満々。今日会社があるのはじぶんがいるからだ、などと錯覚をはじめる。

ぐあいのわるいことにこのような錯覚はエラくなればなるほどつよくなる。「★乃公出でずんば」というやつだ。

自信と責任といえばキコエがいいが、要するに「不可欠感覚」のカタマリのようなもんで、自尊心というか驕慢というか、あるいは思い上がりというか、とにかくちょっと異常になってくるのであります。

しかし、サラリーマンにはいかに「不可欠意識」があっても、やがては定年ということになる「乃公・・・・」といいたいところだが会社の規則に例外はありません。かくして、定年退職のその翌日から出勤ということがなくなる。 とりわけ、そこでガク然とするのはじぶんが退職しても会社はビクともせずに営業をつづけているという事実。

じっさいには「不可欠」ではなく「可欠」、つまりいなくたってよろしかったのである・・・(明日の後編へ続く)

★乃公(だいこう)出でずんば→このおれさまが出ないで、他の者に何ができるものかの意(広辞苑)