『居眠り磐音 江戸双紙』23巻目の著者自身による「あとがき」
頷きながら読みました。
琴線に触れた部分を抜粋引用する。

(前約)
なぜあの時代、生死を眼前にし凝視を続ける闘牛に私は魅せられたか。
私は若く、スペイン闘牛界も生き生きと輝いていた。
茫々三十数年の歳月が過ぎ、力の時代は遠くに過ぎ去っていった。
陰湿きわまりない閉塞感に満ちた日本社会は過酷にも希望なく一筋の光明すら望めない。
時代小説に転じたとき、私は現実社会を映したリアリティーを改めて提供することはあるまいと考えた。それが人間の魂に触れ、肺腑を抉るものであったとしてもだ。

絵空事、嘘とすぐに分る物語でもいい、浮世の憂さを晴らす読み物を書こうと思った。
父が倅を、娘が母を、女が男を、人が人を信じられる世間を描写しようと思った。
読後に一時の爽快感を得られるような物語を書こうと思った。
今の私にはもはや闘牛の生死の現実を見詰めるタフさも若さゆえないゆえの無謀もない。

改めて時代小説を書く上で闘牛から示唆を受けるかと質問されれば、
「人が戦いに惹かれる本能の無意味さと崇高さ」
と曖昧に答えるしかない。 そして、今一つ、闘牛から学んだ生死の非情さ、
不条理の過酷を取り去った虚構の世界が、「私の時代小説」というほかにはない。
体調を崩した後、短い休暇を取った。

(略)
体調を崩して、創作上の人物の言動はすべて、こちらの心身の状態と連動していると実感した。私のテンションが下がれば、磐音も元気をなくす。それが高じれば連作中断の事態を招きかねない。
(略)
この長い「あとがき」は偏に筆者の自戒と覚悟に過ぎない。