現在、救国の士を待望する内容の記事が新聞に多い。
『「昭和の財政家」と呼べるのは3人』という表現が日経の「核心」(本社主幹 岡部直明氏)にあった。その3人「高橋是清」「石橋湛山」「福田赳夫」とある。

今日は「高橋是清」のことをちょっと調べたので記録に残す。

 テレビの番組に「波瀾万丈」という番組ある。
が「だるま」さんこと、高橋是清の人生を知れば、番組の出演者は裸足で逃げ出すだろう。
それほど、平和ボケの日本現代社会に生きる我々には「高橋是清」人生は、生誕から二・二六事件で赤坂の自宅二階で青年将校達に暗殺されるという最後の最後まで波瀾に満ちたもの。
さらに時代背景が明治維新、日清・日露戦争、昭和恐慌と大きな歴史の節目を経験しており、これこそほんとうの「波瀾万丈」の人生だ・・・
 1854年(嘉永7年)閏7月27日:江戸芝中門前町(現東京都港区)に幕府御用絵師 川村庄右衛門(47歳)ときん(16歳)の私生児として江戸芝中門前町に誕生。生まれ間もなく仙台藩の足軽高橋覚治の家に里子に出され後養子となる

 その後、横浜のアメリカ人医師ヘボンの私塾(現・明治学院大学)にて学び、1867年(慶応3年)仙台藩の命令により、勝海舟の息子・小鹿(ころく)と海外へ留学した。ホームステイ先である彼の両親に騙され奴隷契約書にサインし奴隷としてオークランドのブラウン家に売られる。牧童やぶどう園で奴隷としての生活を強いられ、苦労を重ねる。

 1868年(明治元年)帰国する。帰国できたのは良いが仙台藩は官軍に反抗したために米国帰りの彼を受け入れるどころの騒ぎじゃない。
その時、薩摩の森有礼(のちの文部大臣)が英語ができるというので書生として雇ってくれ、更に大学南校(*)の英語の助手の仕事を世話してくれた。

(*)明治3年に開成学校へさらに大学南校と改称、明治7年には更に東京開成学校と名前を代え、明治10年に、元の東京医学校と合併し、東京大学(旧制)、帝国大学、東京帝国大学と変遷し、現在の新制東京大学に繋がっていく)

 ところが、芸者遊びを覚えてしまった。遂には芸妓の家に転がり込んで、小遣銭をもらってブラブラし教師はクビ、たいこもちになる。・・・・・・またもや、幸運が。肥前の唐津藩が英語学校を新設。その教師を月給100円で求めていた。彼は東あずま太郎と名を変えて唐津に赴任。

 1987年(明治20年) 初代特許局長に就任。

 1989年(明治22年) 一攫千金を夢見て、官僚としてのキャリアを中断して赴いたペルーで銀鉱事業を行うが、すでに廃坑のため失敗。

 1892年(明治25年)才覚を認められ日本銀行へ。日露戦争中13億円の外債募集成功

 1927年(昭和2年)に昭和金融恐慌が発生、田中義一に請われ自身3度目の蔵相に就任した。片面だけ印刷した急造の200円札を大量に発行して銀行の店頭に積み上げ、預金者を安心させて金融恐慌を沈静化させた。犬養に請われ4度目の蔵相に就任、金輸出再禁止(12月13日)・日銀引き受けによる政府支出(軍事予算)の増額などで、世界恐慌により混乱する日本経済をデフレから世界最速で脱出させた。

公債発行による財政政策、また乗数効果を説いたことから、「日本のケインズ」とも呼ばれている。

酒好きで有名。国会本会議場の席でも堂々と茶碗酒をすすっていたが、誰も咎める者はなかった。 (誰かさんもこの時代なら良かった?)

工業所有権制度に関するエピソード(初代特許庁長官は高橋是清)
 高橋是清が専売特許、商標登録といったものに興味を持つきっかけは、1874年(明治7年)ごろのこと。
当時、彼は文部省に教育制度確立のため雇われていたアメリカ人モーレー博士の通訳をしていた。
 かのヘボン博士が辞書を再版する際に、版権をとる方法についてモーレー氏に相談があった。
是清が内務省に行って調べたところ、当時外国人にはいわゆる治外法権が存在し、日本の法律は彼らには及ばず、
それゆえ保護の途もないとのことであった。

 この際にモーレー氏が言われたことには、「日本には著作を保護する版権はあるが、発明・商標を保護する規定がない。外国人は、日本人が外国品を真似たり、商標を盗用して、模造品を舶来品のようにして販売していることを非常に迷惑に思っている。米国では発明、商標、版権の3つを智能的財産(Three intellectual properties) と称して最も重要な財産としている。日本でも発明・商標を保護する必要がある。」この話を聞いた是清は工業所有権の重要性を大いに感じ、大英百科事典の概略をたよりに、研究を進めたという・・・。

参考サイト1

参考サイト2