「柿食へば鐘が鳴るなり法隆寺」 子規といえば、この句を思い浮かべる。

ふと、句碑に刻まれた作品はその地にあることだけで、句の境地がわかりやすいのではと思い、探してみた。

色里や 十歩はなれて 秋の風」(宝厳寺)
明治28年10月、正岡子規は夏目漱石と一緒に、道後への吟行を行い、宝厳寺を訪れている。寺には、子規が詠んだ「色里や 十歩はなれて 秋の風」の句碑がある。一方、漱石はのちに、この辺りのことを小説「坊ちゃん」の中で、”北へ登って町はずれへ出ると、左に大きな門があって、門の突き当たりがお寺で、左右が貸し座敷である。山門の中に色町があるなんて、これまでに聞いたことがない現象だ。”

春や昔十五万石の城下かな」(JR松山駅前)
日清戦争が始まり、記者として従軍した子規は、帰途、大喀血して須磨で療養後、松山へ戻った。そして、漱石がいる。
愚陀仏庵での同居生活が始まった。この時(明治28年)の帰省が、子規の最後の帰省となった。そのとき詠んだ「春や昔 十五万石の 城下哉」の句碑が、JR松山駅の前に建っている。

十一人 一人になりて 秋の暮」(三津浜港)
明治28年、子規が最後の上京したときも、久保田回漕店に宿泊しており、このとき見送りにきた「松風会」のメンバーら10人が帰ってしまった後のさびしい心境を詠んだ「十一人 一人になりて 秋の暮」の句碑が、「きせんとゐや久保田」の碑のそばに建っている。

そのほか、探し出した句をいくつか・・・

松山や 秋より高き 天主閣

山吹も 菜の花も咲く 小庭哉

をとゝひの へちまの水も 取らざりき

風呂敷を ほどけば柿の ころげけり

柿くふも 今年ばかりと 思ひけり

紫の 蒲團に坐る 春日かな


正岡子規の功罪
<功>月並俳諧の陳腐を否定し、松尾芭蕉の詩情を高く評価。江戸期の文献を漁ってて忘れられていた与謝蕪村を発掘。
<功>ヨーロッパの自然主義の影響で写生・写実による現実密着型の生活詠を主張した。
<罪>俳諧の言葉遊びや修辞技巧を強く否定。連句(歌仙)に低い評価。

ただし、功績が遥かに勝っていることはだれもが認めるところ。

子規は後年、「俳句を作るは、明治20年、大原宗匠のもとに行きしを始めとす」「余が俳諧の師は、実に先生をもってはじめとす。しかして、今に至るまで他の師を得ず」と書きしるしているそうだ。 誰にでも師匠、その道へ導いてくれた人がいるものだ。

以上 Wikipediaなどより抜粋引用