牧野邦夫 写実の精髄」を練馬美術館へ出向き鑑賞。
ポスターとなっている、自画像はなかなか秀逸。
好きな作品です。
その他にも自画像が多い。
明らかに目指した画家レンブラントを意識してのことだろう。
(レンブラントも自画像をたくさん描いた)

そもそも、レンブラントは私も大好き。
しかしそれほど実物をたくさん見ていない。
国内ではブリジストン美術館の「聖書あるいは物語に取材した夜の情景」ぐらいである。
夜警」が最高傑作とされるが、いつの日か実物を観たい!

帰宅して、レンブラントをネットでよくよく調べた。
牧野邦夫はレンブラントを目指したと紹介にあった。
でも、余りにもレンブラントは絵画界の大御所。
レンブラントの域に達するには自分九十歳まで描き続けなければならない、と。
しかし、道半ばの六十過ぎで亡くなっている。

牧野は若い頃、芸術家であった叔父から、一日12時間、20年?描き続けなければ一流にはなれないと言われた・・・そんな解説がありました。 確かに絵のみならず、人に感動を与えられる域に達するには、並々ならぬ努力が必要ですね。
1624年に18歳のレンブラントは当時オランダ最高の歴史画家と言われた。

アムステルダムのピーテル・ラストマンに師事した。この期間は半年だけであったが、ここでレンブラントはカラヴァッジョ派の明暗を用いる技法や物語への嗜好性、表現性など多くを学んだ。またアルブレヒト・デューラーの『人体均衡論』を深く読み、描写力に磨きをかけたともいう。絵画「夜警」はレンブラントの代表作として著名である。また、生涯を通じて自画像を描いたことでも知られる。これらは、その時々の彼の内面までも伝えている

レンブラントは生涯の創作活動において、物語、風景そして肖像を絵の主題とした。そして最終的に、感情や細部まで緻密に描写する技能に裏打ちされた彼が描く天才的な聖書物語の解釈は、同時代人から高い評価を受けた。彼は同時に、版画における技能も切り開いたと言える。円熟期の中でも特に進歩的だった1649年代末頃は、素描や絵画同様に版画においても自由闊達かつ幅広い表現を感じ取ることができる。作品は広範な主題要素や技術を包含し、時には空間を意識して空白の部分を設けたり、時には織物のように複雑な線を与えて濃く複雑な彩を現出した。

ライデン時代のレンブラント(1625年 - 1631年)にはラストマンから受けた影響が色濃く現れており、また、リーフェンスも意識していたことが窺える。絵の号は小さいが、衣装や宝石などは丁寧な描き方がされている。アムステルダム時代(1632年-1636年)、レンブラントは聖書物語や神話の場面を題材に、『ベルシャザルの酒宴』(1635年)、『ペリシテ人に目を潰されるサムソン』(1636年)、『ダナエ』(1636年)など、ピーテル・パウル・ルーベンスのバロック調をまねて大きな号に明暗を利かせた絵画を仕上げた。

1640年からは、彼自身の不幸な状況が反映したのか、活力に欠け地味な色調へ変化した。聖書物語も以前主にモチーフとして使用した旧約聖書から、新約聖書に題材を多く求めるようになった。1642年にはレンブラントは集団肖像画を受注し、最大にして最も有名な『夜警』を製作した。ここでは、以前からの仕事にあった構成と物語性の問題に対する解答を見つけ出した。

レンブラントは画家として駆け出しの1626年から、1660年に印刷機を手放して実質的な製作活動ができなくなるまで、私生活のトラブルに忙殺された1649年を除いてエッチングに取り組み続けた[

弟子の一人ホーホストラーテンは1678年の著作『美術学校への招待』にて、レンブラントの指導について「知識は実践せよ。さすれば知らぬ事、学ばねばならぬ事が自明になる」という言葉を記した。

集団肖像画はオランダでは100年以上の伝統を持つが、その構図は各人物それぞれに威厳を持たせた明瞭な描き方をすることに注力するあまり、まるで記念写真のように動きに乏しく没個性的で、絵の主題とポーズや構図に違和感があった。レンブラントは、「解剖の講義」という主題を前面に押し出して表現するため、鉗子で腱をつまむトゥルプ教授に全体の威厳を代表させ、他の人物の熱心に語りを聴く姿から彼らの学識を表現した。この代表作かつ出世作となった『テュルプ博士の解剖学講義』によって、レンブラントは高い評価を得た。
彼は独自の主題性と動きのある構図を用いて、1642年初頭に『夜警』を完成させた。注文された絵は組合会館(ニュウヘ・スタッドハイス)に掲げられたが、弟子のホーホストラーテンは『夜警』を評し「展示された他の絵が、まるでトランプの図柄のように見えてしまう」と、その傑出性に眼を見張った。

大画面と明暗を画面上に強く押し出したルミニズムの技法を得意とし、「光の画家」「光の魔術師」(または「光と影の画家」「光と影の魔術師」)の異名をもつ。人物画の黒々とした瞳が特徴。油彩だけでなく、エッチングや複合技法による銅版画やデッサンでも数多い作品を残した。

晩年には、聖書物語に題材を求めこそすれ、その強調するところは1661年の『聖ヤコブ』<ギャラリー>のように演劇的な集団を描く場面から肖像画的風の構図へと変わった。レンブラントは最晩年となった1669年に、生涯に描いた15の自画像の中でも最も深遠な一枚を残し、また『ユダヤの花嫁(イサクとリベカ)』<ギャラリー>など、愛に生きる、人生を過ごす、神に祈る男女の絵を何枚か描いた。

晩年の彼は娘コルネリアと雇った老女中と生活し、「パンとチーズと酢漬ニシンだけが一日の食事」と記されるほど質素な日々を送った。

【集団肖像画 】
テュルプ博士の解剖学講義 

フランス・バニング・コック隊長の市警団(夜警) 

織物商組合の幹部たち

光と影を創り出す技法 
ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジオの光と影を用いる演劇的表現であるキアロスクーロ、もしくはユトレヒト・カラヴァッジョ派の影響を色濃く受けつつも、それらを自らの技法として昇華したレンブラントは「光の魔術師」と呼ばれ、その異名が示す通り光をマッス(塊)で捉えるという独特の手法を編み出した。油彩では、仕上げ前の段階で絵全体に褐色など暗い色のグレーズをかけ、光が当る部分を拭き取る手法を用いた。
これはデッサンにおいてすでに見られる。数多く残された彼のデッサンは、素早く描かれた線に、木材のタール分から作られたピスタで影をざっくりとつける。そのような方法で、輪郭線よりも対象の形態を重視した筆致に、陰影が逆につくる光の塊を纏わせるような表現を可能とした。この「光の量塊」表現がコントラストと緊張をもたらし、対象の心的状態までを描き出している。エッチングにおいては、細針とドライポイントを同時に使った緻密な線と強い線の両方を画面一杯に引き、やはり強いコントラストを生み出している。
モデリング
油彩画では、鉛白を用いたグリザイユ技法で独特のマチエール(質感)を生むアンダー・ペインティングを施して下地にあらかじめ凹凸を設け、その上に描くことで独自のブラッシュ・ストローク(筆触・筆跡)を生み出している。このアンダー・モデリングと呼ばれる下地は、時に数cmも盛り上げられた。さらにレンブラントは絵の具そのものも置くように厚く塗ったため肖像画の「鼻が摘めた」という指摘も残っているが、この手法で絵画に質感を持たせ、遠目でも迫力を与えた。

描写
ホイヘンスの手紙には、レンブラントが芸術活動を通じて到達したであろう高みについて説明した箇所がある。それは、「最も偉大で最も自然な動作」(de meeste en de natuurlijkste beweegelijkheid)と表現される。この「beweechgelickhijt」は「動作 (movement)」ではなく「感情 (emotion)」や「動機 (motive)」を意味するのでは、という意見や、描いた対象が何であるかによって様々な解釈が行われたりする。しかしいずれにせよ、レンブラントが西洋芸術において、現実性と精神性を継ぎ目なく融合させた比類ない存在であることは疑いようがない。

『ダナエ』の左手
彼は絵画中に描かれた人物の心象や情景を巧みに表現した。この点を重視し、レンブラントは他の画家よりもウィリアム・シェイクスピアと比較されることが多い。集団肖像画におけるドラマ性もさることながら、神話や伝説からモチーフを得た絵画でもこの表現法は生かされた。1636-1637年作の『ダナエ』は、ギリシア神話に登場する女ダナエーの許をゼウスが訪れる場面を描いている。この主題は何人もの画家が取り組んだが、それらはどれも多く描写される掌を上に向けたポーズで示されるように金の滴と化したゼウスをただ受容するだけのダナエーを描いた。レンブラントは、右の掌を前に向けたダナエーを描き、彼女に独立した人格と意識を与え、心情を表現した。X線分析によると当初この右手はもっと低い位置に手の甲を見せるように差し出して描かれていたが、製作途中で書き直されたことが判明した。また頭上の手を縛られた金色のクピドは、彼女が幽閉された状況を象徴している。

【画材】

レンブラントは洋紙を好まず、亜麻布や大麻布のボロから手漉きで作らせた紙、雁皮紙などを使った。これは版画などにてインク吸収に優れた点を重視したと思われる。また、当時多く輸出されていた和紙も用い、100ギルダー版画『病をいやすキリスト』や素描など350点以上が残っている。
インク
レンブラントのデッサンには、セピア色の線がよく見られる。これはイカ墨を用いたインクで、レオナルド・ダ・ヴィンチも好んで使った。このイカ墨インクは「レンブラント・インク」とも呼ばれる。

<ギャラリー>
キリスト昇架 1634年頃
アルテ・ピナコテーク

十字架降下 1634年頃
アルテ・ピナコテーク

春の女神フローラに扮したサスキア 1634年
エルミタージュ美術館

アルテミシア 1634年
プラド美術館

キリストと姦淫の女 1644年
ロンドン・ナショナル・ギャラリー

クラウディウス・キウィリスの謀議 1661-1662年
国立美術館(スウェーデン)

アレクサンダー大王 1663年
現在は失われたと考えられる

ホメロス 1663年
マウリッツハイス美術館

30枚の銀貨を返すユダ 1629年
ノース・ヨークシャー、マルグレイブ城

ベルシャザルの酒宴‐壁の言葉‐ 1635年頃
ロンドン・ナショナル・ギャラリー

ペリシテ人に目を潰されるサムソン 1636年
シュテーデル美術研究所

ヤコブ・デ・ヘイデン三世 1632年
ダリッジ美術館

3本の木 1643年
ダリッジ美術館

水浴するスザンナ 1636年
マウリッツハイス美術館

聖ヤコブ 1661年

ユダヤの花嫁(イサクとリベカ) 1667年
アムステルダム国立美術館