本日は横山大観先生について

近代日本画壇の巨匠。今日「朦朧体(もうろうたい)」と呼ばれる、線描を抑えた独特の没線描法を確立した。(没線画法は、天心に「空気を描く工夫はないか」と問われ、春草らとともに考え出したもの)

当初、保守的風潮の強い国内での活動が行き詰まり、大観は春草と共に海外に渡り、カルカッタ、ニューヨーク、ボストンで相次いで展覧会を開き、高い評価を得た。その後ヨーロッパに渡り、ロンドン、ベルリン、パリでも展覧会を開き、ここでも高い評価を受ける。

この欧米での高評価を受けて日本国内でもその画風が評価され始め、1907年(明治40年)にはこの年より始まった文部省美術展覧会(文展)の審査員を務め、1913年(大正2年)には守旧派に押されて活動が途絶えていた日本美術院の再興に至った。
昭和初期に醉心山根本店の社長・山根薫と知り合った大観が互いに意気投合し、「一生の飲み分を約束」した山根より無償で大観に送られていたものだった。しかし山根は年に四斗樽で何本も注文が来るので驚いたという。代金のかわりとして大観は毎年1枚ずつ自分の絵を無償で送り、結果、醉心酒造に大観の記念館ができることとなった。

もっとも、最初から酒好きだったわけではない。若い頃は猪口2 - 3杯で真っ赤になってしまう下戸だった。しかし師の天心は日に2升ともいわれる酒豪であり、「酒の一升くらい飲めずにどうする」と大観を叱咤したため、飲んでは吐きながら訓練した結果であった。

なお1955年(昭和30年)頃までは毎日約1升もの酒を飲んでいたが晩年は量も減り1957年(昭和32年)頃になると1日に4合飲むのがやっとだったという。最晩年の1958年(昭和33年)になると1日に5勺(1合の半分)しか酒を飲めなくなっていた。鯨飲はしていたものの、アルコール中毒になるということはなく、大病もせずに90年の寿命を全うした。Wikipediaより引用

大観にとって醉心は主食であり、米の飯は一日を通じてわずかに朝お茶碗軽く一杯程度のもので、後は全部醉心でカロリーを取っていたといわれています。大観と親交の厚かった、当時の醉心山根本店社長であった山根薫。「甘口とか辛口とかいうが、うちはうま口だ」が薫の口癖だったといいます。

私が真似しようと思っていること、家での晩酌は全て「酔心」にしようかとも思案中・・・