妻の実家の地域に、見事なだんじりが存在する。(「★高山近之輔★」作)

「だんじり」といえば岸和田の「岸和田だんじり祭」が有名ですね。
まずは名の通っている、岸和田だんじりの起源を検索した。
2つの異なる解説有り。

岸和田市サイトの記述 
約300年の歴史と伝統を誇り元禄16年(1703年)、時の岸和田藩主岡部長泰(おかべながやす)公が、京都伏見稲荷を城内三の丸に勧請し、米や麦、豆、あわやひえなどの5つの穀物がたくさん取れるように(五穀豊穣)祈願し、行った稲荷祭がその始まりと伝えられている。 

Wikipediaの記述 
今から約260年前の1745年(延享2年)に、町方の茶屋新右衛門が大坂の祭を見聞し、牛頭天王社(現・岸城神社)の夏祭(旧暦・6月13日)に献灯提灯を掲げたいと藩主に願い出て許可されたのが始まりである。

岸和田のだんじりは古いところで、300年の歴史ということですね。 

さて(妻の実家)「津山だんじり」の歴史を紐解いてみた。 その起源は・・・
・・・「津山まつり」が起源とのことで、そこで登場したと思われる津山「だんじり」は400年以上の歴史がありそうです。

「津山まつり」は、東の津山城鬼門守護・大隅神社、津山城下総鎮守・徳守神社、西の美作二宮・高野神社の秋祭りの総称。元々は「御城下の祭り」(大隅神社、徳守神社の秋祭り)が、近年、高野神社が加わり現在の名称に。津山は古くから、美作の政治、経済の中心地、出雲街道・吉井川水運などの交通拠点として栄えたが、慶長8年(西暦1603)森忠政(織田信長に仕えた森蘭丸の弟)が入国、強固な城を築城。以後、城下町として栄えました。
旧出雲街道沿いには、閑静なたたずまいをみせる武家屋敷、神社、仏閣が多く、街には清流が流れ「西の小京都」と呼ばれる美しい城下町をだんじりが練るコントラストは祭りのもう一つの見どころ。
「津山だんじり」は各町内で守り受け継いできた県指定重要有形民俗文化財のだんじりが徳守神社に20臺、大隅神社に7臺あり、飾り山車(だし)と呼ばれる昭和になって新造されただんじりと併せ約50臺のだんじりが、400年の歴史を持つ「津山まつり」を盛り上げます。

「津山まつり」には当初から「練り物(ねりもの)」が登場していたようだ・・・
「練り物」とは神輿などを中心とした祭礼行列のこととWikipediaにある。祭礼行列には意匠を競った風流(ふりゅう)の山車、屋台、山鉾、傘鉾、車楽や、時代行列などの仮装の一団が付随する。
練り物を奉納する際や観衆へ披露するのに動かす様子のことを練る(ねる)という。また、練り物を敬って「御練り」(おねり)と呼ぶ地域や、略して「練り」(ねり)と呼ぶ地域もある。

総鎮守・徳守神社の祭礼は、森忠政が慶長9年(1604)に同宮を再建して間もなく始まったとされ氏子が練り物を出したのも同時期とされる。総鎮守・徳守神社の祭礼は、津山初代藩主・森忠政が慶長9年(1604)に同宮を再建して間もなく始まったとされ、氏子が練り物を出したのも同時期とされる。大隅神社も忠政により元和6年(1620)、津山城鬼門守護として城下(現在地)へ遷宮されるが当時の祭礼の内容は不明だ。寛文7年(1667)、徳守神社の祭礼に24町が練り物を出すも、いざこざが発生し市中の練り物が禁じられる。40年間の禁止期間を経て、森氏の後、元禄11年(1698)、松平宣富(当時は長矩)が津山城主となり宝永3年(1706)復活。宣富は徳川家康の第二子・松平(結城)秀康の曾孫で、越前家といわれ、徳川家一門のなかでも権威ある家筋(徳川御家門筆頭)で、祭りも親藩の威勢のごとく賑わいを増す。宝永4年(1707)には大隅神社の祭礼にも練り物が出され以後、恒例となった。

妻の出身の町のだんじりは「高山近之助」作と伝えられています。 
今日は、なかなか楽しい、ネットサーフィンでした!

吹屋町だんじり「雙龍臺」


「雙龍臺」 
制作年: 嘉永二年(1848年)の作
工 匠 : 高山近之輔

高山近之輔
 津山の「だんじり」に鑿をふるった伝説的ともいえる巨大な工匠であり、その名前は、近之助の手懸けた「だんじり」として、所有町内の誇りとなっている。
優れた技を認められ、大蔵省御雇となり、紙幣の版下を彫刻したという。また、蛤御門の変の際炎上した京都東本願寺の御影堂・阿弥陀堂が、明治13年(1880)から28年(1895)にかけて再建され、同44年(1911)までには他堂宇も完成するが、この時近之助が棟梁の一人として、腕をふるった。その後近之助は、腕前・名声を同輩に妬まれ、毒殺されたということが地元古老に伝えられえている。
<参考サイト> 津山だんじり保存会館